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スタジオジブリの『思い出のマーニー』感想続きです。この映画を必要とする人に伝わりますように。


思い出のマーニー ビジュアルガイド思い出のマーニー ビジュアルガイド
(2014/07/19)
スタジオジブリ

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スタジオジブリの新作映画米林昌宏監督の『思い出のマーニー』感想続きです。

この映画については昨日感想を書いたのですが、そのあといろいろネットで掲載されている感想を読んだり、自分でも何冊か本を買って制作サイドの話などを読んだりして、(映画を見たあとでもすぐパンフレットとサントラの2枚組CDを買ったのですが、そのあと特集されていた「アニメージュ」と、「思い出のマーニー ビジュアルガイドブック」、「ストーリーガイドブック」「カードブック」まで買ってしまいました
。笑)また新たにいろいろなことを思ったのでちょっと書きたいと思います。

この話はいったいどんな話なのか、という観点でいろいろ考えてみると、まあ、いろいろな見方が出来ると思います。特に杏奈マーニーとの関係について。

杏奈マーニーがどうしてすぐ『特別の』存在になるのか。それは、マーニーが美しい子だから、神秘的だから、それに引かれたということはもちろんあると思いますけれども、あの映画の中ではあの二人はものすごく身体的接触が多いのですね。

もともと杏奈は、人に接近されることを警戒し、嫌がる子ですよね。最初の場面で絵を描いていて、それを体育教師みたいな美術教師に見せろと言われて、すごく思い切ってスケッチブックを渡そうとしたら騒ぎが起こってそれっきりになって、おそらくそんな些細なショックで発作を起こして倒れたりする。養母の頼子の心配も鬱陶しいし、大岩さんのおばさんの親切も「人のうち」の感じ。馴れ馴れしく近づいてくる信子には、「ほっといてよこの太っちょぶた!」何て言ってしまったりする。

その杏奈が、慣れないボートをこいでひっくり返りそうになったということもあるのだろうけど、美しいマーニーを見て目を奪われ、倒れそうになって手を取られ、隠れなきゃ、と手をつないだまま一緒に走り、茂みの中に寄り添って隠れる。もうあっという間にマーニーのぬくもりの中に取り込まれているんですね。

これは「ビジュアルガイドブック」で制作の西村義明さん(高畑勲監督の「かぐや姫の物語」の制作もやりながらこちらもやっていたそうです)が言っているのですが、

杏奈に取ってマーニーというのは、実際に存在するんです。それをどう感じさせるかが重要だと。そこは麻呂さん(米林監督)も僕もこだわったところです。杏奈がマーニーに触れる瞬間、その肉感性を大事にしないと、この映画は多分どうにもならない。」

これを読んで、それは本当になるほどと思いました。昨日の感想にも書きましたが、マーニーというのは本当に「肉感的」な部分を持った存在なのですよね。本当に匂いがしてきそうなくらい。(これはプロデューサーの鈴木敏夫さんがマーニーを「これまでジブリで誰も試みなかった官能性のあるキャラクター」だと言っていてなるほど官能性という言葉もいいなあと思ったのですが)その官能性、肉感性というのが何に由来しているのか、というのが、米林監督の絵の力だけで出ているならすごいなと思ったのですけれども、こういう実は最初からすごく身体的接触が多いということに関わってくるのだと思ったのです。

人との接近、接触を怖がる、それは「自分に自信がない」、ないしは「自分が嫌いな」人にはよくあることですよね。特に子供には。だからその部分でそれまでの杏奈に同化していればしているほど、このマーニーの肉感性、息づかい、肌触り、ぬくもり、つまりは官能性のようなものまで、強く感じることが出来る、ないしは感じてしまうのではないか、と思ったのでした。

そう、初めて(もちろん本当は初めてじゃない、子供の頃に全くそういう経験がないわけではないにしても)そこに体温のある素敵な存在を感じたら、それは「特別の存在」になってしまうに決まっているわけです。かたくなな杏奈の中に、マーニーと秘密を共有できる喜びや、マーニーが和彦のことばかりいうことへの軽い嫉妬、裏切られて辛い気持ち、そして許してと言われてすべてを許すその愛、そんな爆発的な感情を目覚めさせていくすべてのスタートは、その身体的接触の暖かさ、確かさにあったのだろうと思うのです。

そういう意味では、マーニーの肉感性・官能性というのを感じるのは、私や鈴木プロデューサーが男性だからということだけではないのではないかと思います。からだを堅く閉ざしているけれども、本当はそういうものに飢餓状態にあり、そういうものが解放される瞬間を求めていた、そういう経験のある人なら、それは感じられるのではないかと思いました。

もし最初の出会いでそういう身体的な解放がなかったら、あの怖そうで無口な十一が親切にボートに乗せてくれたとしても、抵抗なく乗ることが出来ただろうか、ということも思ったのですね。あれはある意味象徴的な出来事、三途の川の渡し守と言ったら変ですが、あの世とこの世の間を往復することが出来る、ある種そういう力を持った存在としてみることも出来ますよね。

ということで話がちょっとそういう方面に行きましたが、もう一つのポイントは、マーニーの神秘性、というところにもありますね。さんざん「幽霊屋敷」と脅かされた「湿めっ地屋敷」や「嵐の夜の朽ち果てたサイロ」、ボーっとしていると潮が満ちてきて歩いて帰れなくなってしまう、ないしは潮が引いてくるとボートでは行き来できなくなってしまう、そういう境界的な湿地という場所。そういうところに忽然と現れるマーニーという存在ですから、それは霊的な存在であってもおかしくない。私はどちらかと言うとマーニーの神秘性よりも肉感性の方に強く引かれたので、マーニーのことを「私が作り出した幻」だと杏奈が彩香にかたるところがちょっと意外だったのですが、見る人によってはこの神秘性の方に強く引かれるかもしれません。

これについてはやはりビジュアルガイドで美術監督の種田陽平さんがインタビューに答え(ちょっと私がまとめています)、

思い出のマーニー」に描かれた世界がすごく新鮮に感じました。ちょっと怖くて…。どちらかと言えば「少し毒がある」みたいなものが好きということもあって、「かなりいいなあ」と思ってしまったんですね。その毒というのは、マーニーが危ない存在として描かれているところ、要するに、近寄ってはいけないと思いつつも惹かれてしまう、そういう存在として描かれていると感じたんです。牡丹灯籠や四谷怪談の幽霊のように、一線を越えるとなかなか戻れない、そういう怖さがあると感じました。現実の過酷さが物語の裏に張り付いているような雰囲気があるんです。」

と答えています。私はさしてその神秘性というところは意識しなかった、と言うか、まあ以前書いたメルヘンかファンタジーかと言うとメルヘンの世界の住人臭いところがあるので、そのくらいのことは起こってもいいだろう的な感じだったのですけれども、でもやはりその神秘性もまた、彼女の魅力の一つであることは確かですよね。確かに手で触れられる存在であるのに、でも手を離せば、彼女から少し意識を離せば消えてしまう、そんな不確かさもある。ものすごく実在感があるのに、現実感がない。大岩さんの家でのことを思い出そうとしたらマーニーが消えてしまう、というのは本当にそのあたりに引き裂かれた感じなんだなと思います。

その神秘性や肉感性を超え、人に愛されることを知り、人を愛することを知って、そして最後に「本当のこと」を知る。そのオチは昨日は書きませんでしたが、実はマーニーは杏奈に取ってすごく身近な人間だったのです。

そのことについてfujiponさんがこちらのブログで「この作品の終盤の「解説」からすると、マーニーというのは、「杏奈だけの守護霊」みたいな感じになってしまう」と書かれています。fujiponさんのこの感想は、ご自分を「杏奈と同じように世の中にフィットできない自分」として感じるだけでなく、『家のことはほったらかしのお父さん』としても意識してみてしまった、と言うすごく真摯なすばらしい感想だなあと思ったのですけれども、この部分については私は違うように思うなあ、と思ったのでした。

この話が言いたいのは、私は、「誰にでも特別の存在がある」「誰にでも無条件で受け入れてくれる、あるいは受け入れてくれた、つまり「丸ごと愛してくれた」誰かがいる」というメッセージなのではないかと思うのですよね。

それが杏奈に取ってはマーニーだった。つまり、誰にでもマーニーはいるんだよ、というメッセージなんだと、私は思ったわけです。

そんなこと言ったって、私にはマーニーは現実にはいない、という声ももちろん聞こえてきますが、多分そうじゃないんです。どこかにいる。でも気がつかないかもしれない。だってそうでしょう、それこそマーニーだって現実にいるのかいないのか分からない人なんだし、現実に存在したマーニーが娘の姿になって現れたなんて、信じていいんだかよくないんだか分からない話です。でも信じてみよう。一歩前に踏み出して、愛してくれる人を探してみよう、愛することが出来る人を探してみよう。その存在を信じてみよう。そして強く生きていってみよう。そう思ってほしい、そういうメッセージなのだと私には感じられたのでした。

これは、先に書いたプロデューサーの西村さんのインタビューの中でも語られています。この西村さんのインタビューは、高畑勲監督とのエピソードなど、面白いことが沢山含まれているのですが、これはまた別の機会に紹介するとして、この話に戻ると、この主人公の杏奈は物語のはじまりの時点で、大きな危機に直面しているわけです。

養母の頼子を始め、誰も信じられない。自分がいったい何ものなんだか分からない。「あんたはあんたのようにしかみえないから」。そんな言葉が、自分が空っぽだとしか感じられない杏奈の心にひどく突き刺さる。(この言葉、原作にもあるのですが、本当にキーになる、ある意味扉になる言葉ですね。逆に言えば、あんたはあんたとしてしか生きられない、あんたとして生きればいいんだという解放の言葉にもなるわけですから)そんなときにマーニーは、何も知らない(と杏奈は思っている)のに「あなたのことが大好き」と言ってくれる。ぬくもりで包んでくれる。それも、現実の好奇心で近寄って来る女の子たちみたいな下心なく。(そういうことには杏奈のような子は必要以上に敏感です)何も信じられなくなったときに救ってくれるものは何か。これは河合隼雄さんの言葉なのだそうですが、「子供たちの魂が病んだときにその病んだ魂を救えるのは一つは自然だし、もう一つは「丸ごとの愛」だ」と言っていて、まさに『思い出のマーニー』というのはそういう映画だと思いました。

自然と言っても何も、広大な草原だの高山のいい空気だのというステロタイプなものではなくて、この映画に描かれたような、何とも神秘的な湿地だったり、人のいうことを聞かない荒れ狂う天候だったりも含まれている、いやむしろ現実の自然というのはそういうバリエーションに満ちている。そういう自然と、何とも神秘的な、でもすごく親密なマーニーという存在から向けられる『丸ごとの愛』。それも無償の愛ではない、ということが大事だと西村さんは言っています。確かに、マーニーは自分の都合で和彦の方に行ってしまい、守ろうとした杏奈を見捨てて行ってしまう。マーニーの幼なじみだった久子の口から語られた現実に生きたマーニーも、多くのものを失い、そして結局は子供も孫もまともに育てられなかった悲しい存在であったわけです。

そういう意味では、モーパッサンの『女の一生』をある意味たどっているともいえるわけですね。結婚も、親子関係も、結局は信じられない。いつ壊れるか分からない脆い絆。諸行無常と言ったら変だけど、形あるものはすべて過ぎ去っていくもの、と言う、『ナルニア国物語』のラストにも通じるキリスト教的な現世否定感の影も少し感じられます。

じゃあマーニーの人生には何もなかったのか。そんなことは絶対ないわけですね。

まあここからは半ば神秘的な、スピリチュアルな話になりますけれども、時空とか因果律を超えて、苦しんでいる杏奈に丸ごとの愛を伝えた。そしてその力で、杏奈は立ち直ることが出来た。それが出来たからこそ、マーニーは終始一貫してあんなに楽しげで、魅力的で、官能的な少女だったのだと思います。

だからこの映画は、希望を持とう、信じてみよう、自分には何か出来ることがある、と言う映画でもあるということが出来るのだろうと思います。

まあ長々と書いてきましたが、こう書いてみると、やはりこの映画は見る人を選ぶ映画かもしれないなと思います。ジブリ映画と言うと、とにかく見る人に元気を与える、前向きになれる、リアルが充実している人たちが見て楽しい映画、という印象がありますが、この映画はむしろ今元気になれない、そんな人たちに取って強く訴えかけられるものがある映画であるように思いました。

そんな人に、届けばいいなと思います。私はこの映画がとても好きです。
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