個人的な感想です。

マンガ・アニメの感想を書いていきます。『進撃の巨人』『ぼくらのへんたい』『ランドリオール』など。

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「キングダム」:「史実」と「物語やキャラクターの作り方」。





「コンビニ人間」の感想を別ブログに6回にわたって書いたのですが、かなり自分的には気合いの入った文章を書いたせいか、昨日はずっとマンガ「キングダム」を沈潜して読んでいました。

ものを書いてその疲れを取るのにマンガを読む、というのは悪くないパターンだと思います。特に「キングダム」のような「はまれる」マンガはそう言う時にちょうどいい感じがします。

この作品は今までのところ連載で485話、単行本で43巻まで出ていて、単行本に収録されているのが470話までなので、あと15話分が未収録ということになります。私が読み始めたのは今年の頭だったから、既刊分を読み終えて未収録分に突入したのが2月頃、それからずっとヤングジャンプを買っていますが、7月19日発売の43巻でようやく全話続けて読めるようになりました。週刊連載の作品はそういうところが不便だなと思います。

この物語の始りは紀元前245年。始皇帝が13歳で即位した翌年です。主人公の(李)信は15歳ですが、連載の現時点では紀元前238年で22歳になりました。7年経過しています。三百将だったときにライバルの蒙恬たちに出会ったのが17歳の時でそれからでもすでに5年が経過し、いまや五千将としてワンランク上がれば将軍というところになっています。考えてみれば22歳で5000人を率いる武将というのもすごいわけです。(羌瘣の3000人を加えれば8000人ですが)

歴史マンガというものは、史実を調べれば展開がわかる部分があるわけです。特に秀吉や家康の時代など、誰でも知っている時代を描く時には、周知の史実をどう描くのかというところがかなり肝になるわけですが、中国古代の歴史はそれに比べると史料が圧倒的に少なく、キングダムも多くは創作です。しかしその中でも知られている史実はあって、わからないところを「どう描いても許される」という考え方で圧倒的な創作力で描いて行く部分と、史実として有名な部分をどう再解釈して描くのかと言う二つのポイントがあるわけです。そこがふたつともこの「キングダム」という作品は成功していると思います。

主人公の李信は史実にある人物で、秦始皇帝による中国全土の統一事業のときの将軍の一人なのですが、生い立ちや家系などは全然わかっていないので、彼の「戦災孤児→下僕」という経歴は全くの創作です。ただ、彼は史記の「秦始皇本紀」に出て来るだけでなく、彼の子孫が漢の時代やその後の時代にも活躍していて、その辺りも物語と相まって考えると面白いです。

この物語はいろいろ面白いところがあるのですが、考えてみるとまず不思議なのが、主人公の信が「天下の大将軍を目指す」というところです。

それは大きな目標のように思えるが、昔の主人公だったら「天下を取る」ことを目指したでしょう。豊臣秀吉にしてもナポレオンにしてもその上には誰もいないトップを取ったから(秀吉の場合は厳密に言えば天皇がいるが)人気があるのであって、「天下の大将軍」であればその上に王がいるわけだから、その目標は最も高いとは言えません。中国では最下層から皇帝に上り詰めた例はいくつもあるわけで、その辺は不思議なのですが、目指すのが「天下の大将軍」だからこそ「中華統一を目指す秦王・政」と目標を共にできるわけで、構造的には面白いです。もちろん、「強い武将になる」というシンプルな目標を単純に表現しただけ、ということもできるわけですが。

細かいところも読んでいてあとで「そうか」と思うことが多いのですが、例えば信のライバル・蒙恬が軍師としての師の昌平君に築城の才を認められたと言う話が出て来ますが、史実で蒙恬は万里の長城を修築し匈奴の侵入を防ぎ、北の守りを固める将軍なので、読んだ時には気がつきませんでしたが、ある意味伏線になっているわけです。

またその昌平君が「秦でなく楚で立っていたら恐るべきことだった」と言われる場面がありますが、これも史実の展開を見ると実は伏線になっていわけで、なるほどなあと思わされます。

この物語の主人公は、李信だと書きましたが、本当はもう一人いるわけですね。それは後に始皇帝と称する秦王・政です。この二人の成長の物語が、この作品の主軸をなしています。中国全土を覆い尽くす壮大なビルドゥングスロマンなのですね。

史実は、この二人の成長を描くためのいわば材料の一つになっていると言えるかもしれません。政の乗り越えるべき存在として宰相・呂不韋がいます。これは史実通りですが、信にも「将軍の何たるか」を教えてくれる師と言うべき王騎という将軍がいます。この人は実際に活躍した将軍には違いないのですが、不明点が多く今まで注目されていたとは言えない人物で、この「キングダム」で信との関係から、「大将軍」というものを象徴する存在として、最も巨大で魅力的なキャラクターのひとりになったことは作者にとっても予想以上だったようです。主人公をすごい将軍にするためには、その将軍の何たるかを教えてくれた存在もまた、すごい人間でなければならない。もちろんすべてを自分で習得した人物として描くことも不可能ではありませんが、この春秋戦国という時代において先行者はいくらでもいたわけですから、その中の理想の存在として王騎は描かれるべき存在だったわけですね。

そのあとにも実にさまさまなタイプの武将が現れて来て、その個性の面白さがこの作品の大きな魅力になっているわけですが、「大将軍」と言える人物たちは皆それぞれ際立った個性を持っていて、物語の輪郭を浮き上がらせています。

師がいればライバルもいるわけで、その存在として描かれるのが蒙恬や王賁という実在の人物たちです。その二人もまた未熟だけども志は高い、オリジナルで魅力的なキャラクターたちです。蒙恬は投げやりな部分を信の影響で熱く燃え立たせ、王賁は気位の高さが信と競うことでより更なる強さになって行くところは読ませるなあと思います。この三人は三人で大業を成し遂げるわけですが、その史実から逆算してキャラクターを作り上げたのだと思います。李信、蒙恬、王賁とも生没年は未詳なので、始皇帝の生年・紀元前259年にあわせてその前後に設定したのだろうと思います。

当然ながら史書に取り上げられるエピソードの多い秦王・政には、周りに何人も重要な人物が出て来ます。呂不韋があれだけ巨大な存在に描かれたのは政が乗り越えるべき存在だから、その壁の大きさを示すためにそう描かれたわけでしょう。呂不韋は「商人としての本質」を余すところなく現しながら秦並びに六国を手玉に取り、国を牛耳りながら人生を好きなように謳歌して行きます。大変魅力的です。煌めくような「悪の魅力」だと言っていいでしょう。

この物語の圧巻の一つは加冠の儀の後に呂不韋と政の間で行われる問答です。呂不韋は商人として、文官として、経済官僚として、貨幣経済と流通により国を栄えさせると言う現代においては正論というしかない論を並べ立てます。それに対して政は、「人の本質は光だ」といい、中華を統一して戦争をなくす、という理想を述べます。読者は統一された秦が始皇帝没後間もなく崩壊し、再び戦乱常なき世に逆戻りして行くことを知っていますから、逆に言えばその論に説得力を持たせることは難しいことだったと思います。しかしそこに、「光=理想」を持ち込むことにより、倒れても死んでも失敗してもなお理想に向かって進もうとする人間の本質を描こうとしていて、逆に言えばそのためにそれまで理想に倒れた人々が描かれたのだということがわかります。

ここの部分、今書いていて作者の意図がより見えて来た感じがするのですが、現代の常識的に言えば呂不韋の「現実論」の方が強いわけで、ある意味現代が「理想なき時代」であることも浮き彫りにしているとも言えるわけです。しかしだからこそ理想は必要であり、魅力的であるとも言いいたい。政にしろ信にしろ、理想に対するこだわりははっきりとあります。

もう一つ書いておきたいのが史実の再解釈について。王弟成蟜の反乱が、実は成蟜が国王派として呂不韋と敵対していたから呂不韋によってはめられたものだ、という解釈は「光」の話につながる準備としてそうなったのだと思います。ただ踊り子の息子として生まれた政よりも身分の高い生まれだった成蟜を出すことで、宮中における政の不安定な地位を上手く表現することに成功していると思います。

しかし、一番大きな(解釈の)改変は政の母・趙姫(太后)とその愛人であった嫪毐の描写でしょう。呂不韋と政の対立は古くから描かれていたが、そこに第三勢力として太后の存在が描かれているのは新しい。この人物の境遇から、この人が現代人ならばさぞ苦悩に満ちた人生を送っただろうと想像されるわけですが、そのイメージをどんどん拡大されて形成されたのがこの「キングダム」における太后の人物像だと思います。

しかし大変意表を突かれたのがその愛人とされた嫪毐であって、普通は嫪毐自身に権力欲があったか太后との関係が露見して破れかぶれで反乱を起こしたとされているわけですが、この作品ではその反乱自体が呂不韋が政を排斥するための手段として画策されたものだとされ、嫪毐自身は小心な「心優しいバケモノ」として描かれているところです。これは今まで描かれて来なかった「太后の心の闇」を逆方面から照射するすごいアイディアだったと思うし、正直舌を巻きました。

政が加冠の儀を迎えるまでは外征もあるけれども基本的には内部対立の時代であり、連載10年かけてようやくその時代を終えて中華の統一事業に、つまり外征の時代に乗り出して行くのがこれからで、ここからは史実においても名前が出て来る将軍の戦いが多く出て来るので、それらをどう使って信や政の物語を描いて行くのか、大変興味深いです。

「進撃の巨人」:リヴァイはどちらを選択したのか/「キングダム」:信の帰郷



昨日は丸一日忙しかったので、「進撃の巨人」20巻と別冊少年マガジン9月号の発売日だったのにTSUTAYAに買いに行けたのは仕事が終わったあと、10時頃になった。寝る前に一通り読んだけど最新話はすごい展開。まあ二択でどうなるかはわからなかったけど、こっちを取ったかと。来月以降の展開もよくわからないが、もう諫山さんが当初「20巻くらいで終わる」と言っていたその20巻が出たわけで、ラストも近いのだろうなと思う。21巻で終わるならあと2話しかないからちょっと厳しいと思うが、22巻までだとしたらあと6話、つまりあと半年ということになる。来年は「進撃の巨人」アニメのセカンドシーズンも始まるし、どのタイミングまで続くことになるかだなと思う。

そして今日はヤングジャンプの発売日。本来木曜日だが明日が「山の日」で休日になったため、10日水曜日の発売になった。「プリマックス」の昭和のアイドル、蒲池奈保子(これは松田聖子の本名と河合奈保子を足して二で割っている)のアイドル教育もすごいし「源君物語」の光海の行動も興味深いが、やはり何といっても「キングダム」。信が家に帰るのって一体いつぶりなんだ。それも、まだあのボロ家なんだろうか。それに、羌瘣はどこに帰るのか。河了貂と一緒にあのボロ家に帰るのか、その間また旅にでも出るのか。

「進撃の巨人」は、いろいろとまた古い巻を見直してみていたのだけど、ここにきて妙に重要な役回りをしている新兵・フリックは17巻ラストの70話で食堂で新規に募集した調査兵団員たちが「勝てるぞ!」と盛り上がっていた時のメンバーの中のひとりのように思える。名前が出て来たのは前回からだと思うが、モブから大出世だなと思う。

それから、ハンジが助かった経緯。副官のモブリットの機転がなければという描写がなかなか切ない。そしてエルヴィンかアルミンかの二択を迫られたリヴァイの心中に去来した風景。この選択をした理由がこの風景の中で語られているということなのだろう。リヴァイに感謝するエルヴィンの顔と、夢を語って上気したアルミンの顔。

エレンが必死でリヴァイに訴える長広舌と、ハンジの述懐。今回は見せ場が多かった。

また機会があればそれぞれについて、詳しく書こうと思う。

「One Piece(ワンピース)」、久々のルフィとナミの二人だけの展開にどきどきしました。




少年ジャンプ36・37合併号で尾田栄一郎さんの「OnePiece」第835話「魂の国」を読みました。

ドレスローザ編が終わり、ゾウのエピソードがはさまれた(ストーリー全体としては重要な内容でしたが)あと、例によって各班に別れて行動することになり、ルフィ・ナミ・チョッパー・ブルックはミンク族のペドロ・キャロットと一緒にビッグマムの配下であるミンク族のペコムズの案内でビッグマムの下に連れ去られたサンジを探しに行くことになりました。それが19号の822話でした。

長大なストーリーが副筋の展開とともに少しずつ進んで行く「OnePiece」ですので4月に始まったルフィ・ナミ班の航海がようやくビッグマムの拠点・ホールケーキアイランドについたのが31号の831話「不思議な森の冒険」でした。その中ですでにペコムズは連れ去れてしまっています。ここでペドロとブルックはビッグマムの城に忍び込んで「ロードポーネグリフ」を奪うためにルフィたちと別れ、サンジとその「婚約者」であるビッグマムの35女・プリンを探しに行くのはルフィ・ナミ・チョッパーとミンク族のキャロットの4人になりました。

しかし、ここでルフィたちは「不思議の国のアリス」のような世界に巻き込まれ、その混乱の中でルフィはほかの3人を見失ってしまいます。

混乱の中で出会ったのが首と手だけ出して土の中に埋まっている巨大な顔の男。敵でもないけど味方でもない、不思議な男なのですが、4人を混乱させていたビッグマムの8女・魔法使いっぽいミラミラの実(鏡)の能力者・ブリュレのためにナミやサンジやプリンに化けさせた動物を、ルフィはとにかく手当り次第につかまえて、男のところに集めていたのですね。そしたらその中に、本物のナミもいたわけです。そこでようやくルフィは仲間に再会します。

***

で、ここからはこの835話で明かされた重要な内容について書きますのでネタバレを読みたくない方はご注意願いたいのですが、

この大顔の男はただ本当に傍観していただけなのですね。「関わりたくないのよね、何にも」というこの男、実はビッグマムの元夫の一人だったのです。そして「ジュースを持って来てほしいから」という理由でルフィとナミにビッグマムの重要な秘密をいろいろと語ります。

まず、ビッグマムがソルソルの実の能力者で、人のソウル(魂)を自由にやり取りでき、人々の寿命を少しずつ回収して無生物や人間以外の動物に魂を授けているというのです。これでビッグマムの船の船首が歌うこととか、いろいろ理由がわかってきました。

そしてそれを話しているところをビッグマムの10男クラッカーに見つかり、しめられそうになったところ、娘に会わせてくれ、と言います。その娘とは、ギャング・ベッジの妻になったシフォンと、あのスリラーバークでルフィたち一行と出会った「求婚のローラ」のことだったわけです。

ローラがマムの娘であるということはかなり早くの段階からネットでは話題になっていましたが、ようやくこれで確定しましたね。ローラたちは七武海のひとりゲッコー・モリアによって影を奪われ、日の光に当たれない存在になっていたわけですが、ルフィによって助け出され、またナミと親友になってもいました。

そのとき、ナミはローラに「ローラのお母さんのビブルカード」をもらっていました。その時ローラの手下が「船長のお母さんは新世界のすごい海賊なんだぞ!」と言ってたわけです。それがビッグマムだということがここで判明したので、ということはナミはビッグマムのビブルカードを持っているということなんですね。このことがこれからの展開にどういう影響を与えるのかはわかりませんが、だいぶいろいろな伏線の糸がつながってきました。

ネタバレはここまでです。

***

というわけで、ホールケーキアイランドに上陸してからちょっと分けのわからな過ぎる不思議生物たちがたくさん出て来てちょっと困ったなと思っていたのですが、ようやく全部がつながってきました。今回は重要な内容が明かされた回でした。今週号は合併号なので次のジャンプの発売は1週飛んで22日。1週休みの前に盛り上がった内容にする、というセオリー通りにここは興味深い展開でto be continuedになったわけです。

さて、今週号ですが、読んでいて何か不思議に懐かしい気持ちがしたので、何でだろうなと思ったのですが、実はものすごく久しぶりに、ルフィとナミの二人だけの話の展開になっているのですね。

そう言う展開になったのは、ルフィとナミが出会ったバギーの一件のときから、ガイモンの島に上陸して「OnePiece世界の概要」について語ったとき、その後もメンバーたちが絡んでの展開はアーロンパークのくだりやドラム王国でナミが病気になったときなどもちろんいろいろありますが、二人きりの展開はそのあと空島でルフィがナミの運転するウィーバーに乗ってエネルの船・マクシムに巨大な豆の樹の蔓を駆け上がって行った、あの時以来ではないでしょうか。

あの場面、32巻の296話でウィーバーを運転するナミが「ジェットダイヤルの最速、まだ出したことないのよね。だって強すぎて私でも制御しきれないんだもん・・・!!」「んじゃそれで!!!」「OK!!!」と駆け上がって行くところです。私がOnePieceの中でもとても好きな場面の一つです。

OnePieceの女性キャラとして、最も知られていて最も古くから出ているのはナミですが、基本的にはヒロインではなく「仲間」なので、二人きりになる場面というのはほとんどなかったのですよね。ただやはり、「OnePieceの女性キャラと言えばナミ」ということはあると思いますし(私はロビン派ですが)、ナミとルフィの二人だけのシーンというのはやはりどことなくドキドキするものはあります。

みんなでいる場面でもルフィを膝枕している場面とかはだいたいロビンなんですが、ロビンはお姉さん的、ナミはしっかり者の世話女房的な位置づけのことが多いと思います。そう言う古女房的ななかなか二人だけにはならない位置づけだったキャラクターなので、二人だけになると何となくときめくのかもしれません、読む方が。

特にドレスローザ編ではサニー号に残ったナミ・サンジたちのグループは別行動になって、ドレスローザでドフラミンゴを倒す展開の間ずっと出ていませんでしたから、ゾウ編でものすごく久しぶりに出て来て、(読者は)みんな懐かしかったと思います。料理と言えばサンジでしたがルフィの酷い料理のあとナミが料理するようになりましたし、その辺にも萌えはあったのでしょうか。

33号でも、映画の宣伝ではありますが表紙にナミが描かれていて、最近ナミがフィーチャーされて来ているように思います。なんだかんだ言ってもOnePiece、ナミが物語を支えている、とても重要なキャラであるのだなあということを再確認している今日この頃なのでした。

『日出処の天子』:推古朝の華やかさ、目に見えない部分の広さ、作家の業の深さ



山岸凉子『日出処の天子』(白泉社文庫)全7巻読了。7巻189ページ以降は続編とも言うべき「馬屋古女王」。「日出処の天子」は、厩戸王子が遣隋使の派遣の際の国書を起草している場面で終わる。「馬屋古女王」はその厩戸王子、すなわち聖徳太子が薨去されたときから始まり、そのもがりの宮でのエピソード、上宮王家すなわち聖徳太子家の滅亡を暗示する場面で終わる。もともと山背大兄王の一族が滅亡することは「日出処の天子」の中でも厩戸王子の夢=ヴィジョン(幻視)の中で繰り返しでてくる。だからこの掌編はやや蛇足のように思われたのだが、「日出処の天子」がある意味華やかな推古朝の開幕を告げるある意味希望に満ちた場面で終わることが、何か作者にし残したことを感じさせたのかもしれないと思う。

しかし大変な作品があったものだ。古代史のこのあたりのストーリーは大体頭にあったとはいえ、それをどのように描き出すかについては全く想像を超えている。それは当然なのだが、描かれたものはもはや古代史ロマンというような言葉で片付けられるものではなく、「人間の業の深さ」や「仏の救いの意味」といった信じ難いくらい深いところまで射程が延びている。岡野容子「陰陽師」にしても、この作品の構造がかなりの部分換骨奪胎されて使われている。厩戸にたかる下級霊のありさまなど、「陰陽師」や近藤ようこの中世ものによく出てくる場面に輪廻転生している場面がたくさんある。

聖徳太子が実は超能力者だった、というような設定としてよく語られるけれども、厩戸王子のやっていることは彼自身が言うように、「誰にでもできること」なのだと思う。その能力を伸ばせばの話であることはもちろんだが、車の運転が出来ることくらいには誰にでもできることで本来あるのかもしれないと思う。だから彼の感じている理不尽さとか孤独の深さというものは、感じ取れるものがあった。水木しげるが7巻の解説でシャーマンの三つの種類ということを言っていて、一つめが「悪霊祓い」のように霊がその人の中に入ってきて動かす場合、二つめが「予言者」のように外側で霊が手伝っている場合、三つめが「霊がつかないけれども本人に何かを感じさせる」場合、があるのだという。水木は自分が妖怪が好きで妖怪のことを書くことについて、誰かが手伝っている、と感じているのだそうだ。私はもちろん前の二つは全然縁がないが、三つ目のものは分らないでもない。目に見えなくてもあるものはあるし、目に見えてもそう意味のないものもある。

大事なのは、目に見えない部分をいかに感じ、いかに大切にするのかということなのだと思う。それは霊というとわからない感じがするが、何かの本質とでも言うべきもので、それは知性のみによってとらえられるものではないように思う。たとえば「権力」にも目に見える部分と見えない部分があり、目に見える部分だけを物にしようとしても目に見えない部分に振り回される。大切なものは目に見えない、というのは「星の王子様」のメッセージだが、目に見えるものと目に見えないものがあるのではなく、すべてのものには目に見える部分と目に見えない部分とがあるということなのではないか。このマンガの厩戸王子は誰にも見えない部分が見える力を持っていて、おそらくはそのことと深い関係があって普通の女性を愛することができない。それは母に疎まれた結果であるという形で提示はされているが、そんな単純なものとももはや感じられない。

人間にもやはり、目に見える部分と目に見えない部分がある。それをあえて隠そうとしている人間は策士として信用できないということになるが、あえて隠そうとしなくてもぜんぜん見えない大きな広がりを持つ人間というのはいるし、逆に目に見える部分からほとんど広がりのない人間もいる。人を知っていくということは、そういう目に見えない部分を知っていくということが面白いのだと思うが、それが誰でもそうなのかは分らない。それを「人間探求」と言ってもいいと思うが、それは今まで考えていた人間探求ということのイメージとは少し違う。けれどもその方がどうも私は面白い。

しかし山岸凉子は、発想の自由な飛躍を積み重ねて舞台を作って行き、とことん築き上げてから6~7巻になってものすごく本質的な部分に切り込んでいく。崇峻天皇暗殺という古代史の重大事件の中で厩戸王子と蘇我毛人の「本質的な親和性」と「それゆえの違和」との象徴的な存在である「布都姫」の殺害とを重ね合わせていく手法はくらくらした。これは『ベルサイユの薔薇』だ。オスカルとアンドレの愛の成就とバスチーユ襲撃を重ね合わせた手法、もっと言えば二月革命の動乱と愛の行く末を重ねたりするフランス文学の手法を引いている。しかし史実とドラマのクライマックスをこのように重ねるのはやはり神をも恐れぬ所業だと感じてしまうなあ。でもそれをやってしまうからこそ、作家という存在は業が深いのだが。

厩戸王子にとって特別な存在である二人、母の間人女王と毛人の存在の意味が解きほぐされていくが、またそれでも余計なことは語られない。最後に狂った少女が厩戸王子の第三の妃になり、彼女だけが本当の彼の子どもたちを生むというのも最後までこのストーリーのテンションを下げず、それでいて大団円におさめるすごい。自らの一族の滅亡を知りながら、すべて無駄なことだと知りながら、厩戸王子は政治に熱中する。

「私には見える。遠い海の彼方で次々と船の沈む様が。あれは我々の隋へ向かう船であり、その逆に隋から戻ってくる船でもある。何千巻という経文が海底ヘ消えていく…そしてそれに書かれた文字の一つ一つが仏の姿になって海の中の水泡となって溶け去っていくのが見える。」

このイメージには圧倒される。厩戸王子は、気の狂った少女に向かって話しつづける。

「それでもわたしはやるだろう。隋へあてる書の出だしはこうだ。日出処の天子、書を日没処の天子へいたす…日出処というのはこの国のことだ。どうだいい表現だろう。今度は破ってはいかんぞ。そうだ、ちゃんとたたんで大事に持っていてくれ。」

この少女にだけは、何をいっても理解しているとは思われないこの少女にだけは厩戸王子はすべてを語る。しかしこれは、この少女の存在は何を言っても王子の意図も心も理解できはしない群臣や民衆たちの暗喩ではないかと思った。「理解されなくても、すばらしいことをしつづけなければ生きている気がしない。」そうした厩戸王子の、まさに業であって、唯一の理解者である毛人はそれとともに生きることを拒否した。その孤独の強さ。でもそういう道を歩き出そうとするその姿が、何か大きな希望のように思える。

推古朝はやはり日本古代史の最大の見せ場のひとつであり、それは推古女帝、蘇我馬子、聖徳太子という才気と胆力の溢れた個性の三頭政治の時代であって、理想主義の面において聖徳太子が明確なイニシアチブをとったことがその世界をきわめて華やかにしていることは確かだ。その古代史の構造を、こんな形で華やかに描き出した作品はほかにないだろう。

(この文章は2009年に書かれたものです) 

山岸凉子『日出処の天子』:いきなり最初のページから「このマンガは絶対面白い」と確信させられた。






しばらく、以前に書いたマンガの感想をこちらのブログにも載せていきたいと思います。まず、4回に分けて山岸凉子さんの『日出処の天子』の感想を書きます。



元のブログはこちら
の方になりますので、よろしければそちらもどうぞ。



***



いきなり最初のページから「このマンガは絶対面白い」と確信させられた。



第1巻の、12ページの刀自古郎女の登場。古代史にいきなりこのおきゃんな(死語)娘。もうこれは明らかに描きたいように描いている。今4巻の途中まで読んだが、この作品の持つパワーと影響、無自覚に世の中を変えてしまったフィクションの恐ろしい力のようなもののことを考えると全く戦慄する。




しかし、もう何より理屈はすべて置いておいてもこの作品は滅法面白い。歴史をある程度知っている人間がこの作品を読むと、史実の処理の巧みさに舌を巻く。今このときのはじめてこの作品を読める自分は幸せだと思う。やはりニュートラルな感覚が活性化しているときでないと、こういう問題作は十分楽しめない。今このときにこの作品を読める幸せをかみ締める。生きててよかったと思う。




荒俣弘が1巻の解説で少女漫画の「可能性としてのメディア」としての性格が存分に発揮された、80年代のマンガの黄金時代のトップランナーであることを述べているが、「可能性としてのメディア」というのはいい言葉だなと思う。実験的な作品をどんどん成功させていく、マンガ界全体が持っていたパワーが、この作品には溢れている。高野文子も諸星大二郎も、つまりメジャーもマイナーも、この時代の漫画はとにかくどれもこれも面白かった。




少年漫画は70年代に裸と幼児化により、少女漫画は90年代にセックスと変態のおかげで退廃化していった、という荒俣の分析には激しく同意する。退廃に抗っていまなお『テレプシコーラ』など孤高の作品を生み出し続ける山岸涼子の力は凄い。



(もとになる文章は2009年に書いたものです。)








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